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検閲と自我 [アジア総合]

新宿K’sシネマでドキュメンタリー・ドリーム・ショー東京のプログラムでいくつか観る。

以下の2本はいずれも映画の検閲にまつわるドキュメンタリー。各国の様々な事情があるが、中国当局のやり方はほとんど弾圧に近い。ゲストのトークセッションも興味深かった。


●『カット』(2016)ハイルン・ニッサ監督(インドネシア)

エドウィン監督とプロデューサーが『空を飛びたい盲目の豚』(08)の検閲申請をする様子を追い、(検閲申請は今回で2度目)その審査過程をあらわにする。スハルト時代の映画法92年8号が未だに適用され、ジョコウィ政権になってもほとんど変化がない。劇中にはリリ・リザ監督の姿や、ウスマル監督の言葉も引用されていた。

エドウィン監督とメイスク・タウリシアさんによるトーク。政府の喧伝・教育で、検閲にひっかからないように自己規制する雰囲気がDKI以外にはある。自分の場合は検閲があるからといって作品が変わるようなことはない。独立でやってる配給が機能していて『空を飛びたい~』は年に10回は各地で自主上映される、とのこと。

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エドウィン監督(右)とプロデューサーメイスクさん


●『映画のない映画祭』(2015)王我監督(中国)

北京・宋荘。栗憲庭映画基金で行われる予定だった第11回北京独立電影展が当局によって妨害され、主催者2人を拘束、収蔵作品1522枚のDVDが押収された。その様子を居合わせた監督や観客の撮った携帯カメラの動画をつなぎ合わせまとめめ上げたもの。その不条理さに腹が立つ。
耿軍監督を殴った偽装”村民”が派出所の警官たちだとわかるくだりがスリリング。しかし、主催者たちを支援する人たちが暖かく感動的。「閉目」運動の展開。(第11回は日本映画上映も予定されていて、相田和弘監督も参加予定だった)

上映後、映画基金の運営に携わっていた中山大樹、字幕の秋山珠子両氏のトーク。当局の妨害は馴れ合い程度であったが、2010年艾未未の拘束以降、激しくなっていった。当局が映画・映像の効力を認めだしたからでは。独立電影展は、ネットや少量ずつの上映に形を変えながら細々と続いてはいるが…。




次の2本は、自我を投影したような作品だった。


●『イン・カメラ』(2010)ランジャン・パリット監督

25年間、数々の撮影を手掛け、自身もドキュ作家であるパリット監督は、過去の作品を振り返り、時に被写体と再会する。ボンベイのスラム、西ベンガルの盲目のバウル、ダム建設反対運動、カシミール紛争で失われた若い命、一方で「カメラのように抱いた幼娘」の巣立ち。悔恨と郷愁の入り混じる人生を投影する逸品。
劇中出て来た『コルカタ星の物語』(タイトル不確か)という作品が不思議なテイストで面白そうだった。インドにはこういった知られざるインディペンデント映画がたくさんあるのだろう。


●『孤独な存在』(2006) 沙青監督

孤独な自分をカメラに納める風の作品かと思ったら、さにあらず。他者や風景を観察する監督のまなざしから、自己の内面を曝け出すような作品。例えば、幸せそうなカップルを映すと、監督の羨望のまなざしや孤独感が身透けてしまうような。高度なリテラシーが必要とされる作品だ。監督がある種の悟り・諦観を持ってから、(幽体離脱のような表現)映像に生気がみなぎって来る。決して露悪的ならない映像作家の気高さを見る。沙青監督の作品は『一緒の時』(2002)を観ている。

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